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商鞅が説いた帝王道を秦の孝公が用いなかった理由【仁義道徳は難しい】

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戦国時代に衛の公子である商鞅は、初めに魏に仕えますが、魏の恵王は用いる事が出来ませんでした。

そこで、商鞅は秦に行き孝公に帝道、王道、覇道を説くわけですが、そこで秦の孝公に用いられる事になります。

最終的に、孝公は覇道を取り法治国家への道を突き進む事になりますが、なぜ孝公は帝道や王道を採用しなかったのか考えてみました。

尚、キングダムでは秦王政が法治国家を中国で初めて採用したような形になっていますが、実際には秦王政が政務を取る100年以上前から秦では法治国家としての基礎が出来上がっています。

私は秦の天下統一は商鞅が孝公に認められて宰相になった時が、天下統一への第一歩だと思っているほどです。

しかし、李斯や韓非子が登場する100年以上前に既に法治国家を秦は実践していた事は覚えておいた方がよいでしょう。

 

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商鞅が秦の孝公に帝道と王道を説く

商鞅は秦に着くと、秦の孝公のお気に入りの宦官である景監と知り合い孝公に面会を依頼します。

商鞅は孝公と面会しますが、そこで最高の徳とも言うべき帝道を説いたそうです。

つまり、最高の徳の道を孝公に実践してもらい、夏・殷・周などに匹敵するような王朝を作るように説いたわけです。

しかし、孝公は商鞅の話しを聞いているうちに、居眠りまでしてしまい興味を示さなかったとされています。

話しが終ると景監に「客の話しはつまらなかった」と怒って言ったそうです。

しかし、孝公の心に残るものがあったのか、5日後に商鞅と孝公は再び面会します。

ここで商鞅は帝道ではなくランクを下げた王道を孝公に説いたそうです。

王道に関しては、孝公はある程度の理解は示しますが、結局は居眠りをしてしまいます。

そして、孝公は景監に商鞅の話しが詰らなかったと文句を言ったとされています。

景監の方も孝公を怒らせてばかりの商鞅に対して文句を言った話が残っています。

しかし、孝公はまた5日ほどすると商鞅を呼び寄せました。

そこで、孝公に覇道を説き国家を法治国家に変貌させて治める手段を提案します。

これには、孝公は大そう商鞅の言葉を気に入り居眠りをする事もなく熱心に何日も聞き入ったそうです。

これにより商鞅は秦の大臣となる事が出来ました。

さらに、後には孝公を覇者としますし、秦を一大強国にするのに大いに貢献しています。

 

 

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法治国家になる事を商鞅は望んでいなかった?

史記の司馬遷の記述を見ると、商鞅に関しては冷たい人間だった事を強調しているかのように感じます。

孝公との話の時に、「帝道・王道」を説いたのは心にもない事だったと記載があります。

つまり、司馬遷は商鞅は初めから法治国家にする事を決めていたけど、孝公の興味を引くために最初に話題に出したと考えたようです。

さらに、孝公に謁見するために、宦官である景監を頼った事なども非難しています。

当時の宦官というのは卑しい身分者のとされていて、多くの人が交わるのを恥とした為でしょう。

ただし、宦官は君主の傍にいるため、逆に商鞅はチャンスだと考えたと思われます。

しかし、孝公が覇道を採用して商鞅の言を気に入った時に、景監に言った言葉はガッカリしたような事を言っているわけです。

「孝公は帝や王の道を選ばずに自分一代で秦を強国にして名を挙げる事を選んだ。これは徳において夏・殷・周に及ばない事だ」

と述べています。

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これが本心の言葉なのか分かりませんが、天下統一後に夏・殷・周と違って秦が長続きしない事を予言しているような言葉にも感じるわけです。

実際に、商鞅は法律を厳しくするわけですが、始皇帝の統一後に厳しすぎる法律が社会混乱を呼んだとも言えるでしょう。

それが秦を統一後わずか15年で滅亡する事を商鞅が予言しているようにも感じます。

可能性は少ないように感じますが、商鞅は徳による政治で夏・殷・周の聖王と呼ばれている兎、湯王、周の文王・武王のような王様に孝公がなってもらいたかったのかも知れません。

法治国家ではなく徳による政治です。

 

そもそも帝道や王道とは何なのか?

秦の孝公に対して、商鞅は帝道と王道を最初に説いたとされています。

しかし、そもそも帝道や王道とは一体何なんでしょうか?

実際に、商鞅が説いた内容が史記にも記録されていないので分かりません。

ただし、雰囲気からは仁義道徳を説いたのではないかと感じています。

内容としては「性善説」に近いような事を言ったのではないかと思います。

もしかしてですが、孟子のように「仁政を敷き法を緩くして刑罰を軽くすれば民に喜ばれて国が強くなる。」みたいな事を言った可能性が高いのではないかと感じました。

しかし、孟子がどこに行っても用いられなかった様に、この時代は仁義道徳に関しては用いられにくかった環境があったのかも知れません。

それか君主自体が儒教的な教えにウンザリしていた可能性もあるでしょう。

尚、劉邦が作った前漢は王莽が簒奪して滅びた事になっています。

王莽は西周王朝や周公旦を理想の人物としていたようですが、徳治主義を行いわずか15年で滅亡しています。

そのため帝道や王道は非常に難しく秦の孝公が採用していたら、秦は始皇帝を待たずして孝公の代で魏辺りに滅ぼされていたのかも知れませんw

実際に商鞅は魏の公子卬をだまし討ちにしています。

帝道や王道を実践していたら孝公はだまし討ちを反対した事でしょう。

ちなみに、仁義道徳を行き過ぎてしまった宋襄の仁のような話もあります。

仁義道徳もここまで行けば笑えない話になってくるわけです・・・。

 

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仁義道徳は受け入れにくい

人という物を考えた時に、仁義道徳というのは非常に大事な事だと思います。

思いやりを持って事にあたるとか、親孝行を大事にするなどです。

しかし、会社などで仁義道徳を取り入れるのは、かなり難しいと感じています。

実際に私が社長だったとしたら従業員には、仁義道徳を取り入れようと思っても難しいでしょう。

仁義道徳でやっていては、従業員に怠けられてしまいそうですし、困難にも感じます。

しかし、法治国家のように会社のルールをしっかりと設けてやった方が会社にとっての利益は得やすいと思うわけです。

さらに、ルールによって効率性をよく考えて決まりを作った方が会社としては成功しやすいと思いました。

鄭の名宰相子産は死ぬときに、後継者の游吉に次の言葉を与えています。

「寛容な態度で物事に対処するのは徳を持った人間だけが可能です。次善は厳しく態度で治めるやり方です。あなた(游吉)は厳しい態度で物事に挑みなさい」

しかし、游吉は寛容な政治を行った為に盗賊が多くなり国が乱れてしまい、結局は厳しい態度に変更して国はよく治まったとされています。

子産は、帝道や王道は一般人では治めるのが非常に難しい事を諭しているように感じました。

仁義道徳を盲として政治をするのは大変難しい事が分かる発言だと思いました。

それを考えれば、秦の孝公は現実に見合った道(法治国家)を選び優れた君主だと言えそうです。

 

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