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陶謙と言えば劉備に徐州を譲った優しそうなおじいさんのイメージがないでしょうか?
しかし、陶謙の史実を見る限りでは、優しそうなお爺さんと言う言葉は当てはまりません。
むしろやりたい放題の無法者と言った方がいいかも知れませんw
もし、陶謙に優しそうなお爺さんとか、優柔不断のおじいちゃん的なイメージがあるのであれば、粉砕してもらいたいと思いますw
ちなみに、正史三国志の著者である陳寿は陶謙の事を「感情のままに動き道義に背いた人物」と評価を与えています。
よっぽどの無法者だった事が分かりますねw
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目次
自分の上司を侮辱する
184年に涼州において辺章・韓遂が反乱を起こします。
後漢側で鎮圧に任命されたのが張温という人物になります。
張温の部下には董卓、孫権、陶謙などの三国志ではお馴染みの人物がいました。
この時に張温は陶謙の事を厚遇していたとされています。
しかし、陶謙の方は張温の指揮などが気に入らなかったようで、ついに酒宴の最中に侮辱してしまいます。
張温は責任者でもありましたし、陶謙を左遷する事にしました。
その後、周りのとりなしにより陶謙は職場復帰するわけですが、暴言はやめなかったそうですw
ついには、張温の方が「お前の暴言癖は治らない」と呆れられたという話が残っていますw
陶謙は口がかなり悪かった事も間違いないでしょうw
反董卓連合軍に参加せずに董卓に賄賂を送る
霊帝が死ぬと政治は混乱状況に陥ります。
少帝を廃して献帝を即位させる事で実験を握ったのが董卓です。
しかし、董卓は悪逆非道な行動が多く人から嫌われていました。
董卓を打倒するために、曹操や袁紹が董卓打倒のための連合軍を作り上げます。
袁紹や曹操の呼びかけに袁術、孫権、公孫瓚、張邈、韓馥・孔伷・劉岱ら多くの刺史や太守らが参加をしています。
しかし、陶謙は反董卓連合に参加する事がありませんでした。
それどころか、董卓に賄賂を送っていますw
そして、董卓に働きかけて自分の徐州の権力強化に邁進しているわけですw
尚、反董卓連合軍が結成されるなか、陶謙は影響力を強めて徐州だけではなく豫州にまで影響力を及ぼす様になりました。
連合軍に参加せずに、董卓に賄賂を贈る辺りも無法者とも言えるでしょうw
それか、韓遂討伐の時に董卓と陶謙は同じ軍にいたわけで、強硬政策を進言する董卓に魅力を感じていたのかも知れません。
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張昭が士官に応じないと投獄
後に孫策に迎えられて重臣となる張昭がいます。
張昭は張紘と共に「江東の二張」とも呼ばれています。
赤壁の戦いでは降伏派でしたが、呉の文官の筆頭になるような人物です。
陶謙は張昭を自分に士官させようと思い茂才(優秀な人物)として推挙します。
しかし、張昭は陶謙が無法者だと知っていたのか、士官を断ったわけです。
劉備とか孫策であれば三顧の礼をするわけですが、陶謙の場合は張昭に腹を立てて捕らえてしまいますw
さらに、獄に入れたそうですから、よっぽど怒っていたのでしょうw
士官を断られたと言って獄につないでしまうのは、心が狭いかなとも感じます。
しかし、立派な無法者ではあるでしょうw
自称皇帝を名乗る男と手を結ぶ
陶謙が徐州で活躍していた頃、闕宣(けっせん)は下邳で天子を名乗っています。
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つまり、闕宣は皇帝を自称していたわけです。
後漢末期には袁術以外にも勝手に皇帝を名乗る人物がいたのです。
もちろん、献帝は許可していませんので、常識的に考えれば闕宣は逆賊となります。
しかし、陶謙は思いもかけぬ行動に出ます。
何と闕宣と同盟を結んでしまうわけですw
闕宣と同盟を結び曹操に対抗しようとしています。
さらに、陶謙の凄い所が闕宣を裏切って殺してしまい兵力を吸収してしまった所でしょうw
ここからも陶謙の無法者ぶりを伺い知る事が出来ます。
ここまで行くと、三国志演義の著者である羅漢中はよく陶謙を「優しいお爺さん」に設定したな~と思ってしまった次第ですw
部下の笮融は職場放棄
これはおまけ的な記事なのですが、陶謙の部下に笮融という男がいました。
三国志演義では劉繇の部下として登場する笮融です。
実際の笮融は、最初は陶謙の部下として仕事をしていました。
輸送を任されたわけですが、笮融は途中で仕事を全て投げ出してしまい職場放棄していますw
普通で考えれば笮融が悪い事になりますが、陶謙だと「この上司にしてこの部下あり」と思えるから不思議ですw
ちなみに、笮融はその後、仏教に目を付けて仏教保護をしています。
しかし、陶謙の部下が曹嵩(曹操の父親)を殺害してしまいます。
曹操に攻められると陶謙は破れてしまうわけです。
この時に、笮融は南方に信者を引き連れていくわけですが、略奪も行っているわけですw
笮融については、別記事で詳しく書いてありますので、読んでみてください。
関連記事:笮融は悪人だけど、仏教保護者でもある!破壊坊主説ありw
陶謙は乱暴者だったからこそ認められた?
陶謙は父親が早くに亡くなり孤児だったようです。
しかし、陶謙は元々親分肌だったのか、子供たちの間ではガキ大将?として通っていた話が残っています。
陶謙を見た甘公という人物が、たいそう気に入り自分の娘を嫁にやると言い出します。
もちろん、当時の陶謙は財力も大してありませんから、甘公の夫人は大反対しますが、甘公は陶謙は絶対に出世すると言い娘と結婚させました。
この辺りの話しは劉邦と呂后の話しに似ています。
甘公の娘と結婚できた事で陶謙は財力のバックアップに成功しました。
陶謙は学問に励んだとありますが、若くして甘公の娘と結婚してから学問に目覚めたのではないかと感じます。
もし陶謙が、大人しい男であったならば甘公は娘を嫁にやらなかったでしょう。
陶謙は暴れん坊ではあるが、魅力的な物も備えていたと思われます。
逆に言えば乱暴者で気が強い一面があったからこそ、甘公は陶謙を認めた可能性も高いです。
尚、陶謙ですが、陳寿には「感情のままに動くとか道義に背く」と書かれている事実は確かにあります。
しかし、呉書では「剛直で世の規範を守って行動する人物」とも書かれているわけです。
そのため陶謙は二面性のある人物とも取れるでしょう。
行動を見る限りでは、世の規範を本当に守っているのか?疑問もわいてきますが、案外、実在の人物は好漢だったのかも知れませんね。
ちなみに、陶謙は自分の息子ではなく劉備を推挙して世を去っていますが、劉備に自分に通じるものを見た可能性があります。
劉備も正史三国志では、かなり暴れていますからねw
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