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魯粛の最後と子孫のお話!【息子魯淑も名臣だった】

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魯粛の最後と子孫のお話です。

おまけとして、魯粛の先祖の事もお話したいと思います。

周瑜などの死の場合は、遺書などがあったりするわけですが、魯粛の場合はどのように亡くなったのかもイマイチ分かっていません。

ただし、戦場で死んだなどは無い様に思えます。

病死辺りが有力かなと個人的には考えていますが、三国志演義の魯粛の最後と合わせて書いてみます。

 

 

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三国志演義の魯粛の最後

三国志演義の魯粛の最後ですが、カッコいい死に方ではないような気がします。

というか、三国志演義では魯粛自体がお人好しなどの情けないような役割を振られているからです。

 

関連記事:魯粛が可愛いとか可哀想と思える理由【頑張っている奴はカッコいい】

 

その死は、曹操の元を訪れた管輅が魯粛の死を予言します。

さらに、張魯を倒して手にいれた漢中が劉備に攻められる事、夏侯淵が戦死してしまう事なども予言します。

どちらかと言えば、魯粛の死ではなく管輅の予言が当たる事にスポットが当てられているのが特徴です。

劉備陣営にしてみれば、劉備を気にかけてくれる魯粛ではなく、後任に反劉備の呂蒙がなった事で大きく情勢が変わる重要なポイントのはずです。

それにも関わらず、管輅の引き立て役で使われています。

それでも、楽進ほどは、酷くないと感じていますけどw

 

関連記事:楽進が名将にも関わらず評価されない件【究極の引き立て役】

 

 

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魯粛の正史での最後

魯粛の正史での最後ですが、217年に死亡した事だけは分かっています。

しかし、どのような死に方だったのかはイマイチ分かっていません。

太史慈のように死ぬ間際の言葉も残されていないわけです。

周瑜のように遺書があったなどのもありません。

 

関連記事:太史慈の最後【皇帝になる野望があった!?】

関連記事:周瑜の遺言を聞かなかった孫権・・・。

 

孫権は魯粛の死を聞くと哭礼を行い葬儀にも直々に参加しています。

赤壁の戦いの時に、魯粛と周瑜しか戦いたいという人がいなくて、既に周瑜は死んでいるので、心に来るものがあったのでしょう。

さらに、諸葛亮は魯粛の死を聞くと喪に服したとあります。

赤壁の戦いの前に、敗残兵の集りになっていた劉備陣営を目に掛けてくれたのが魯粛であり感謝の念があったと思われます。

このように敵・味方問わず多くの人に惜しまれたのが魯粛です。

ちなみに、孫権は後に皇帝になりますが、その時に、「自分が皇帝になる事を魯粛は予見していた」とも語っています。

 

後継者の厳畯と呂蒙

孫権は魯粛の後継者に学者肌の厳畯を起用しようと考えていました。

しかし、厳畯は自分は書生に過ぎず、私のような者を後任にすれば後悔すると、涙ながらに孫権に訴えました。

その結果、孫権も納得して厳畯をやめて魯粛の後継者に呂蒙を据えています。

厳畯が任命されて、涙ながらに断る事を見ると、魯粛は後継者を指名しなかった可能性が高いのではないかと思います。

そのため個人的には、魯粛は突然死だったのではないか?と考えています。

ただし、荊州の責任者となった周瑜、魯粛、呂蒙は責任者になるとすぐに死んでしまいました。

そのため、余りにも激務で有名で厳畯も断った可能性がありますw

過労死の危険性を考えたわけですw

ただし、陸遜だけは長生きをしています。陸遜の最後の死に方は後継者争いに巻き込まれての。。という残念な死に方でしたが・・・。

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ちなみに、厳畯は孫権が馬に乗せてみたら、速攻で落馬したという運動神経ゼロの逸話もあります。

もちろん、本当に落馬したのか、提督になりたくないので、わざと落馬したのかは定かではありませんw

結果、最終的に呂蒙が呉の荊州方面の司令官となりました。

魯粛も呂蒙の事は高く評価していましたし、呉下の阿蒙の故事でも有名です。

ちなみに、呂蒙は劉備と同盟を破棄して関羽を討ち取り劉備の勢力を荊州から駆逐する事に成功しています。

 

関連記事:【呉下の阿蒙に非ず】呂蒙が武将から知将に覚醒する

 

魯淑も名将だった

魯粛の子は、魯淑(ろしゅく)と言います。

漢字は違いますが、親子揃って読み方が一緒です。

尚、魯粛の死んだ時は、まだ生まれていませんでしたが、魯粛の死後に生まれています。

母親が既に妊娠していてお腹の中に子供がいたのでしょう。

魯粛の子供じゃない説もあるのかも知れませんが、魯粛が死ぬときはお腹が大きかったのかも知れません。

魯淑は、張承(張昭の子)から高く評価されています。

ちなみに、張昭は諸葛瑾などとも深く交わっていたようです。

魯淑は、任地では厳正な政治を行いよく仕事をこなしたと記録に残っています。

しかし、晋を薛瑩と攻めた時は不意を突かれて王渾に敗れています。(弋陽の戦い)

その翌年に亡くなりました(274年)

敗戦のショックが大きかったのか、既に病に掛かっていたのかは分かりません。

魯淑の子に魯睦(ろぼく)がいる事は分かってますが、魯睦の活躍は不明です。

尚、280年に呉は司馬炎により滅ぼされているので、その後は晋で官僚にでもなったのかも知れません。

しかし、これらは想像に過ぎません。

それ以降の子孫については不明です。

中国には魯迅という有名な思想家もいますが、もしかして遠い祖先が魯粛の可能性は残っているかと思います

もちろん、証明はできませんが(汗

 

魯粛の先祖について

魯粛の先祖ですが、イマイチ分かっていません。

魯粛の家は豪族であり、裕福な家柄でした。

魯粛自身は、家財を投げうって私兵を作り軍事訓練を行いというキチガイな行動を行っていますがw

春秋戦国時代に「魯」という国があります。

小国で最後は、楚に滅ぼされています。

もしかしてですが、魯の公族か、どこかで魯で封土を授かった者の子孫かも知れません。

中国では、授かった封土により性を変える事が多いです。

戦国七雄の魏は、祖先の性は「畢」でしたが、晋の献公(重耳の父)に魏に封じられて、性を魏に変更しています。

同様に「韓」も晋の公族出身であるので、最初の性は「姫」ですが、韓原の地に封じられた事で「韓」を性に変えています。

同じように魯粛の祖先も、魯の辺りに封じられて「魯」を名乗った可能性もあるのではないでしょうか?

これは、想像だけで終わってしまいますが・・・。

それでも、キングダムで話題の李信の子孫のように皇帝になったなどは無いようです。

三国志演義にも息子の魯淑は登場しませんし、魯粛は一代の英雄的な要素が強いと思っています。

 

関連記事:李信の最後や子孫はどうなったのか?

関連記事:【戦国七雄・最弱国・韓の逆転劇】韓非子・宰相で韓は天下を取れるのか?

 

魯粛の遺言が欲しかった

最後に、魯粛の死について簡単にお話したいと思います。

自分的には、後継者を推薦するとかの話しも欲しかったように思います。

しかし、妻のお腹の中に子供がいた事を考えると、元気だったのに突然死した可能性が高いでしょう。

脳出血や脳卒中のような病気だったのかも知れません。

それか、過労死で突然倒れるなどもあったような気がします

魯家のキチガイと呼ばれながらも、見事に成長して最後は呉で最も重用された人となりました。

生きざまを見ても立派な人だと感じています。

バランス感覚が非常に優れていると私は思っています。

 

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