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太史慈の最後【皇帝になる野望があった!?】

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太史慈の最後は、正史三国志と三国志演義とでは違った最後を迎えます。

個人的に好きなのは、正史三国志の最後なのですが、この話をなぜ三国志演義の作者である羅貫中は採用しなかったのか謎ですね。

まあ、楽進のように、甘寧と淩統の引き立て役になるよりはマシかと思いますがw

 

関連記事:楽進が名将にも関わらず評価されない件【究極の引き立て役】

 

三国志演義での太史慈の最後

三国志演義だと、太史慈は赤壁の戦いでも活躍しています。

さらに、合肥の戦いにも参加しますが、そこで太史慈は最後を迎えます。

尚、日本で三国志と言えば、吉川英治さんの三国志が有名です。

吉川英治さんの三国志でも合肥の戦いで太史慈が死亡した事になっています。

合肥の戦いの時に、太史慈は夜襲を決行します。

しかし、この夜襲は敵将張遼により察知されていました。

張遼は夜襲を見越して伏兵を配置しておいたのですが、見事に太史慈は罠にはまってしまいます。

そして、矢があちこちから飛んできて、ハリネズミのようになって死んだ事になっているわけです。

太史慈は弓矢の達人であった事から、最後は弓矢で死んだ設定にしたのでしょうか?

しかし、数々の武功を建てた呉の名将のはずなのに、呆気なく死んでしまった感じが強いです。

三国志演義の作者の羅貫中は、太史慈の適当っぽい所が嫌いだったのかも知れません

私は好きですがw

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正史の太史慈の最後

陳寿の書いた三国志正史ですが、裴松之の注によれば206年に死亡した事になっています。

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孫策が亡くなったのが、200年なので、孫権にも仕えた事は間違いありません。

死期を悟った太史慈は、次のように述べたとされています。

「丈夫として世に生まれた限り、7尺の剣を帯びて、天子の階を昇るべきものを、それが果たせぬうちに、死ぬことになるのか」

太史慈の死は、病死なのか突然死なのかは記載がなくて不明ですが、さぞかし無念だったのでしょう。

まだまだ、自分はやれたと言うのが心の中にあったのかも知れません。

さらに、武勇に秀でた人だったため、健康で強靭な肉体があり自分が死ぬことを想像出来なかったのでしょう。

正史の最後の方が、三国志演義に比べると、死に方がカッコよく感じます。

正史の話しの方が物語も盛り上がると思うのですが、太史慈の最後を奇襲が失敗しての戦死に変えてしまったのかは謎です。

 

 

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太史慈は皇帝になる野望があった?

太史慈の最後の言葉を思い出してみてください。

「丈夫として世に生まれた限り、7尺の剣を帯びて、天子の階を昇るべきものを、それが果たせぬうちに、死ぬことになるのか」

この言葉は、自分が皇帝になりたかった野望にも感じる言葉になっています。

最初見た時は、孫策や孫権の元で天下統一して高位に上りたかったのかな?とも感じました。

しかし、よく考えてみると「天子(皇帝)になりたかった」という野望の方が強いように感じます。

そのため、太史慈は最終的には、独立勢力にでもなって天下を統一したかったのかも知れませんね。

しかし、孫権に取っても惜しい男を無くした事でしょう。

ちなみに、三国志のゲームだと呉では武力が90を超える様な武将が少ないです。

太史慈と甘寧と周泰がかろうじて超えるかな?位のものです。

数少ない武力型の武将がここで死んでしまうのは、三国志ゲームにおいても残念でしょう。

尚、呉って初期の方はカッコいい人材が多いと思いました。

最後の暴君である孫晧の時代では考えられませんね

孫晧の代には、宮女が相撲を取るなんて事までやってしまうわけですからw

この頃は、呉もまともだったなと感じています。

 

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