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太史慈は、孔融を救った後に、故郷である青州を離れています。
青洲は黄巾賊が活発に活動しすぎていて、治安が悪かったようです。
そこで、劉繇(りゅうよう)を頼る事にしました。
しかし、劉繇は太史慈を重用しなかったようです。
劉繇の元で与えられた役目は斥候(偵察)でした。
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孫策に偶然出くわす
劉繇ですが、三国志演義などですと、太史慈を重用しなかったりと、孫策のやられ役なのですが、劉繇は史実だと粘り強く頑張っているところも見受けられます。
しかし、太史慈を重用しなかったのは本当の事のようです。
その当時、劉繇は袁術に圧迫されたり、袁術から独立したい孫策と戦ったりしています。
孫策と戦う時に、偵察部隊として行動していた太史慈は偶然にも孫策と出くわしてしまいます。
当時の孫策というのは、圧倒的な腕力で敵を一撃で倒す事が多かったわけです。
しかし、太史慈が相手だと思わぬ苦戦を強いられます。
太史慈は馬を刺されて落馬し、孫策は兜を取られて組打ちとなりました。
組打ちと言えば、聞こえはいいですが、実際は転がり合っての殴り合いだったのかも知れませんw
この戦いは決着が着かずにお互いが引く事になりました。
両軍の兵士が飛び出そうとしたようで、危険を感じた孫策と太史慈が引いたのでしょう。
この苦戦が孫策が太史慈の実力を認める事になります。
その後、劉繇と孫策が戦いますが、劉繇は破れてしまいます。
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太史慈が丹陽太守を名乗る
劉繇が敗走すると、太史慈は別行動を取るようになります。
勝手に、丹陽太守を名乗るわけですw
もちろん、朝廷から任命されたわけでもありませんし、自分で勝手に名乗っているだけですw
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まあ、皇帝を勝手に名乗ってしまう袁術よりはましですが、詐称をしたのは太史慈も同じです。
そして、丹陽太守の名を使って兵士を終結させると、孫策に決戦を挑みます。
しかし、孫策軍は強く太史慈は破れて囚われてしまうわけです。
孫策が太史慈の力量を認める
孫策は、太史慈と戦った時に、力量が分かっていました。
そのため、太史慈を捕らえましたが、自ら縄を解いています。
そして、孫策の力量の高さに感服し配下になります。
劉繇が豫章で亡くなると、劉繇配下が彷徨い始めます。
それを太史慈が引き留めに行き、劉繇の残党を孫策陣営に引き入れる事にも活躍をしました。
この時に配下の側近は太史慈が帰って来ないと孫策に言いましたが、太史慈は約束を守り期限までに帰ってきています。
地味になる太史慈
ここから先ですが、太史慈は途端に地味な存在になっていくような気がします(涙
孫策との一騎打ちなどが一番の晴れ舞台だったような気がするんです。
しかし、実際の太史慈は豫章の平定をしたりしています。
さらに、孫策が亡くなり孫権が立つと南方の鎮定に活躍しています。
赤壁の戦いの2年に前に、惜しくもなくなっているわけです。
三国志演義では、赤壁でも戦っていますが、史実では赤壁の戦いよりも前に亡くなっています。
孫策の配下になってから地味な感じがする理由
太史慈が孫策の配下になってから地味に感じてしまう理由ですが、詐術?が無くなるからではないでしょうか?
上奏文を破った時や孔融の援軍に行ったときのような、インパクトが無くなって、黙々と任務をこなしている感じだからです。
関連記事:太史慈が圧倒的な武勇で孔融を救う
関連記事:太史慈【初めてのお遣い】相手をペテンに掛けての勝利w
太史慈は、弓の名手で気を掴んでいる敵に向かって矢を放つと、木と手を同時に射抜いた程の実力です。
そうした実力もなりを潜めてしまうような感じがします。
また、太史慈の個人的な武勇が見つかれば紹介したいです。
個人的には、適当なところが好きなんですけどねw