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趙奢の子孫は名門となり馬援、馬超、馬騰が登場する

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趙奢の子孫が三国志で有名な馬騰や馬超の家系となりました。

あれ?苗字が違っているんじゃない?と思った人も多いかも知れません。

趙奢が閼与の戦いで、秦の胡傷を破って大勝した事で【馬服君】に封ぜられました。

 

関連記事:趙奢・許歴の意見を聞き高地を占拠する【閼与の戦い3】

 

趙奢の子孫は、馬服君の「馬」を苗字にしたようです。

尚、趙奢がいつ死んだかについては、分かっていません。

しかし、恵文王の30年には田単と議論した逸話が残っていますし、長平の戦いまでには死亡していた事も分かっています。

 

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そのため、孝成王が即位する前後(長平の戦いの4年前)位で亡くなったのではないかと思われます。

 

 

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趙奢の妻が一族を救った

趙奢の息子は、趙括なのですが、長平の戦いで白起に敗れて戦死しています。

しかし、子孫が残ったのには理由があります。

趙奢の妻は、趙奢が予言した通り趙括が敗北する事を見抜いて、趙の孝成王にある約束をさせています。

「趙括が戦いに敗れても一族には罪が及ばない」という約束です。

 

関連記事:長平の戦いを完全検証してみた!

 

この約束をしていた為に、趙括が長平の戦いで40万人の兵士を失うという歴史的な大敗をしても、一族は罪に問われませんでした。

そのため、趙奢の子孫は残ったわけです。

ただし、生き残った子孫が趙奢とどのような関係なのかは分かりません。

趙括の他に、趙牧という子がいたとされていますが、どのような実績があるのかも確認は取れませんでした。

もしかして、趙括や趙牧の子が秦や漢の時代を生き抜いて存続させたのかも知れません。

どこかのタイミングで趙から馬に氏を変えた可能性があります。

 

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光武帝の元で活躍した名将馬援

キングダムの世界では春秋戦国時代になりますが、秦が統一します。

しかし、統一後わずか15年で秦は滅亡し、楚漢戦争があり漢の劉邦が天下統一しました。

その後、王莽が漢を簒奪して新を作りますが、社会は無茶苦茶になります。

群雄割拠の状態になるわけですが、劉秀(光武帝)の元で活躍した武将に馬援がいます。

劉秀の時代は、三国志と違って全くと言ってよいほど、取り上げられません。

宮城谷昌光さんが、呉漢という小説を出しましたが、呉漢(人名)と並ぶ名将が馬援です。

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統一後も活躍しますが、戦場で亡くなりました。60歳を過ぎても戦場を駆け巡った凄い爺さんだったわけです

 

娘が後漢の明帝の后となる

馬援の娘が、後漢の2代皇帝である明帝の后となります。

馬皇后と呼ばれています。

馬皇后は、政治に関して一切口を出さなかったと言われています。

その関係で、宦官と外戚の権力闘争が無く政情は安定したそうです。

明徳馬皇后とも呼ばれていて、屈指の賢夫人と評価されています。

馬皇后が帝に嫁いだ事で、この時の馬家は名門中の名門となります。

趙奢の子孫が、皇帝の后になったわけです。

 

三国志の馬騰や馬超にも繋がっている

三国志に詳しい人であれば、馬騰や馬超を知らない人はいないでしょう。

馬騰の時代には、残念ながら馬家は没落していたようです。

しかし、馬騰が盛り返して朝廷の直属の家来にもなっています。

ただし、馬超が挙兵したために、馬騰や馬休、馬鉄などの一族の多くは曹操に斬られてしまいました。

その後、馬超は張魯の元に身を寄せたりしますが、最終的には劉備の家来となります。

劉璋が馬超が劉備に加わったと聞くと降伏した逸話があります。

しかし、蜀に降ってからは、目だった活躍はありませんでしたが、左将軍(関羽、張飛、黄忠と同格)になったり、驃騎将軍に任命されるなど重用されていました。

221年に死亡したようですが、残った一族は馬岱だけであったとも言われています。

実際には、息子の馬承もいて、跡を継いでいます。

馬騰が死んだのは、馬超のせい?

三国志演義ですと、曹操が馬騰を殺したから馬超が挙兵した事になっています。

しかし、実際には馬超が挙兵をしたから、馬騰や一族が処刑されたようです。

正史だと馬超の挙兵が先になっています。

馬騰、馬休、馬鉄などの一族が殺されたのは、馬超の責任とも取れるわけです。

尚、馬超の死後に、子の馬承が継ぎました。

さらに、馬超の娘が劉備の娘である劉理に嫁ぎました。

ここまでが分かっているのですが、そこから先がどうなっているのかは分かりません。

蜀が魏に滅ぼされた時に、劉禅と一緒に洛陽に行ったのかも知れませんし、殺されてしまったのかも知れません。

その後は、不明です

 

馬超は寂しい奴である

趙奢の子孫の最後を飾るともいえる馬超ですが、派手な感じもあり三国志の中でも人気のキャラです。

しかし、よく考えてみると、馬超は非常に寂しい人です。

確かに、一族の事をよく考えずに挙兵してしまったり、張魯の所にいる時は、妻子を残して劉備に降りました。

そのため、自業自得とはいえ、一族の大半が死んでしまい寂しい晩年だった気がします。

馬超は劉備に対して、「一族で残った馬岱の事をくれぐれもよろしく頼みます」という書簡を送ったとされています。

一族の大半が死んでしまったら責任感も感じると思いますし、心に隙間風が吹いていてもおかしくありません。

馬超には羌族などの遊牧民の地が流れていますが、血がそうさせるのでしょうか?

しかし、馬超も春秋戦国時代の重耳に負けじと放浪した人でもあります。

劉備も中国一周の放浪をしていますけどねw

しかし、馬超のしくじりは、一族を顧みずに行動した事によるところも大きいでしょう。

 

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