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戦国策の記述になるのですが、趙奢と田単が戦争について論争した話があります。
趙奢がどのような考えを持っていたのかが、非常によく分かる話でもあります。
合理主義の趙奢と、奇策の田単の違いが分かるお話です。
趙奢に田単が論破されていますが、田単が納得していない可能性もあります。
尚、田単は楽毅率いる燕軍の大攻勢を奇策を持ってしのぎ、燕から斉の領土を取り戻した名将です。
しかし、斉から趙に移り宰相にまっています。
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田単が趙奢のやり方に意見をする
田単は恵文王の30年に趙の宰相になりました。
この年までに斉から趙に移ったのでしょう。
田単は宰相になったのですが、趙奢に対して意見をします。
田単「将軍(趙奢)の用兵に関しては、感服しております。しかし、大軍を動員しすぎている様に思えてなりません。」
田単「大軍を動員してしまえば、百姓が減りますし、軍資金も掛かってしまいますし、食料補給も難しいのです」
田単「これでは戦争のための経費が掛かりすぎてしまい国が疲弊してしまいます」
田単「古の帝王は3万の軍勢で天下を取りました。しかし、将軍(趙奢)は毎回、10万、20万の兵士を動員します。この理由を教えて頂きたい。」
田単としては、宰相なので国家財政も気にしなければいけない理由があったのかも知れません。
それに対して趙奢は次のように反論しています。
趙奢「あなた(田単)は、兵法にも暗いし時勢にも疎い。古の時代は、国が数多くあり小国が乱立していた。」
趙奢「古の時代は国も街も小さかったから3万の軍勢でも十分に事は足りた。」
趙奢「ところが万を数えた国々は、征服しあい最後に残った戦国七雄に限られる事になった」
趙奢「今では10万、20万の軍勢で敵が攻めて来る事も珍しくない、20万の軍勢を相手に3万の兵士では十分に戦えない」
趙奢「他国が援軍を求める際にも、3万人では話にならないと思われるだけである」
趙奢「今の時代、3万の軍勢で一体何が出来るのか」
このように反論したとされています。
これに対して、田単は趙奢に納得したようで、「私が不明でした」と答えたとされています。
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趙奢は、息子の趙括に論破された話があるので、口は余り上手くないのかな?と思える所がありますが、ここでは名将田単を相手に堂々と意見を述べています。
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田単は実は納得していない?
戦国策の趙奢と田単の話しだけを見ると、趙奢が田単を論破した事になっています。
しかし、田単は過去に奇策を持って少数の兵士を率いて大軍を撃破した記録が残っています。
燕の楽毅が五カ国連合軍を結成して斉を攻めた時の話しです。
その時は、楽毅によって二つの城を残して全て燕の支配下になりました。
しかし、楽毅が解任されると、奇策を持って怒涛の反撃をして、燕に奪われた斉の城を取り返した過去があります。
そのため、田単が趙奢の意見に対して、完全に納得したかは不明な部分もあります。
それに、少数の兵士で勝てるのであれば、国家財政を圧迫させない程度で軍を動かした方がよいでしょう。
実際に、呉王闔閭の時代に呉は楚に攻め込む前に、少数の兵士で楚を攻める素振りをして、相手が大軍を動員して来ると退却するを繰り返しています。
これにより、楚の国家財政を悪化させています。
この辺りも臨機応変に考えたいところです。
田単と趙奢も名将だけど
田単も趙奢も名将だとは思いますが、記録に残っていない戦いが多いと思われます。
田単は燕の大軍を破った戦いと狄を破った戦い位しか分かっている戦いがありません。
趙奢にしても、閼与の戦い以外は不明な部分が多いです。
関連記事:趙奢・自分に意見する部下を斬り捨てる【閼与の戦い2】
関連記事:趙奢・許歴の意見を聞き高地を占拠する【閼与の戦い3】
しかし、趙奢と田単の話しだと、大軍を率いて他国を攻めた事が分かります。
廉頗のように、連年のように戦闘に参加した形跡が残されていないからです。
楽毅もそうなのですが、趙に移ると廉頗がいるせいか影が薄くなってしまうのかも知れません。
恵文王が内政重視だからなのかも知れませんが・・・。
この頃の趙は名将が多いけど、活躍の場が少ない気もしました。
贅沢な悩みでもあるんですけどね。
しかし、趙奢、田単、廉頗、楽毅、藺相如の5人が趙にいた時期があるので、5人で戦争について討論したら面白いかも知れません。
キングダムの趙国・三大天+2という感じでやってもらいたいですw