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昌文君の最後は餓死?そして、昌平君を出奔させるのか?

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最初に、謝らなければならない事があります。

下記の記事は、昌平君の実績や最後、楚王になる話などを書きました。

 

関連記事:昌平君は謎が多い人物、キングダムではラスボス!?

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秦を去って、最後は項燕に擁立されて王になる話も含めたわけです。

その中に、秦を去るタイミング226年だと書きました。

これは別に構わないのですが、226年に起きた事件が韓の貴族の反乱と書いたわけです。

しかし、この年は秦の中では大事な年でもあり文官の最高位である左丞相・相国を務めた昌文君も死亡した年なのです。

キングダムのストーリー的に考えると、昌平君の出奔は昌文君が大きく関わっているのではないか?と思うようになりました。

そこで、今回は昌文君についてのお話です。

 

 

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昌文君は謎が多すぎる人物である

昌文君のお話をしようと思って、困ってしまうのが実績が余りにも不明だという事です。

キングダムだと元は武人だったとか、王騎と戦場を駆け巡ったなどの設定がありますが、史実の昌文君の実績が全く分からないのです。

ただ、嫪毐が反乱を起こした時に、昌平君と共に鎮圧して左丞相となったこと。

その後、226年に死去した事が掲載されていますが、名前すらも分からない人物です

先ほども、お話したように、その年に韓(既に秦に滅ぼされている)の元貴族たちの反乱があった事、昌平君が秦を出奔した事件があります。

 

昌文君の死が昌平君を出奔させるのか?

昌平君の死ですが、ウィキペディアを見ると不思議な記述があるのです。

紀元前226年、某山に移って死去した。

ウィキペディアの昌文君の記述

昌文君が某山に移って死去したという記述です。

何のために山に入ったのかは分かりません。

山に入るというのは、それなりの理由があるのではないかと思います。

中国の歴史書である史記には、山に入った人物が何人か描かれています。

代表的なのは、伯夷叔斉介子推です。

これらの人は自分の主君や世の中に絶望して山に入って行きました。

伯夷叔斉と介子推がどのように山に入ったのかを簡単に説明します。

伯夷叔斉のありえない生き方

伯夷叔斉ですが、二人セットで語られる事が多いです。

伯夷と叔斉の兄弟です。

ちなみに、史記の列伝は伯夷列伝から始まるので、司馬遷に取っても思い入れの深い人物なのでしょう。

伯夷叔斉は、殷から周に国が変わる時代の人です。

殷の紂王を武王が討伐しようとした時に、武王を止めて「悪逆な君主であっても、臣下が主君を討伐するのはよくない」といい無理やり武王を止めようとしました。

この時に、武王の側近たちは、伯夷と叔斉を殺そうとしますが、武王の軍師である太公望呂尚が「これ義人である」といい伯夷叔斉を去らせるように配慮しました。

その後、武王は紂王を倒し周王朝を築くわけですが、伯夷と叔斉は山(首陽山)に籠り周の食べ物を食べようとはしませんでした。

周の食べ物は汚らわしいと考えたようです。

その結果、伯夷叔斉は山で餓死しています。

世の中に絶望し山の中で餓死したわけです。

現代の日本では絶対に考えられない生き方ですよね。

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生きようと思えば生きる事が出来たのに餓死したわけです。

 

介子推は山で焼き死ぬ??

介子推は、晋の文公(重耳)の放浪時代の家来です。

宮城谷昌光さんの小説の主人公にもなりました。

介子推ですが、重耳が晋の国主になるのですが、咎犯(狐偃)が、自分を謙遜する事で、国に帰った時に褒賞を多くしようとする行動が気にいらずに山に籠ったとされています。

文公と狐偃の態度に嫌気がさして山に籠ったわけです。

しかし、晋の文公はある事から介子推の事を思い出して、褒賞を与える事にしました。

そして、介子推が籠ったと言われている山に着きますが、介子推は出てきませんでした。

そこで、重耳は山に火を着けてしまったわけです。山に火を着ければ逃げて山から下りて来る算段だったのでしょう。

しかし、介子推は下山する事はなく、母親と共に焼死したとされています。

※史記では、介子推が籠った山を介山と名付けて、介子推の領地にしています

 

 

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昌文君も餓死するのか?

伯夷叔斉と介子推のパターンを見ると、昌文君も山に籠って餓死しても不思議はないかと思います。

古代の中国の発想だと、山に籠るのは俗世を捨てるとかそういう意味合いが強いからです。

キングダムの昌文君を見てみると「山に籠って仙人になる」などの発想はないように思います。

秦王政に絶望して入山する可能性もあると感じています。

 

李牧がいなくなって政ば暴走する?

紀元前229年に李牧が死ぬと、秦王政は心に余裕が出来て変な方向に暴走する可能性もあるのではないでしょうか?

人民に対して目に余る行動が多くなり昌文君は山に籠る事になります

そして、秦王政に絶望して餓死しても物語的には十分にあり得るかなと感じています。

さらに、昌文君が死んだ紀元前226年は韓の元貴族の反乱と李信が楚を攻める年になります。

昌平君も秦が変わってしまった事に気が付き、秦を出奔して楚に入ると予想が出来ます。

昌文君と昌平君の間に、何らかのやり取りがあった可能性もあるでしょう。

尚、この頃は後の漢の高祖劉邦は既に生まれていますので、山に入ったら劉邦が既に山賊をやっていたオチもあるかも知れませんw

 

秦は統一後15年で滅亡する短命国家だった

秦王政は天下統一して始皇帝となりますが、統一後11年で亡くなり、2世皇帝胡亥の時代になりますが、趙高の専横もあり4年で滅亡します。

さらに、2世皇帝の後期は秦の名将章邯の頑張りもありますが、反乱が広がり統一王朝では無くなっています。

そのため、統一の期間は10年ちょっとしかないわけです。

秦王政は頭もよく優秀な王様ではありましたが、法律を厳しくし過ぎて人民を酷使してしまう事で有名な王様です。

韓非子や李斯に影響を受けているので、仕方がない部分もあるかと思いますが、どこかのタイミングで秦王政が暴走してもおかしくはありません。

そのタイミングが紀元前226年の昌文君の死だったのかも知れません。

死をもって政を諫める昌文君でしたが、暴走が止まらなかった設定もアリかも知れません。

 

昌文君の死のまとめ

最後に、昌文君をまとめますが、このような事件が今後あるのではないかと思っています。

山に籠るのは尋常の行為ではない

昌文君の死と昌平君が楚に移るのは関係している?

秦王政の暴走がある可能性がある

しかし、キングダムの作者が昌文君の死をどのように描くのかは楽しみでなりません。

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