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三国志・キングダム「春秋戦国時代」と史実と考察の歴史書

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戦国七雄を解説!

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戦国七雄について解説します。

もちろん、戦国七雄というのは中国の戦国時代に力を持った7つの国を指します。

春秋時代は王を名乗っていたのは、周王と楚王だけでしたが、戦国時代に入ると他の国も王を名乗っています。

戦国七雄ですが、秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の7カ国を指します。

ただし、戦国時代の中国は7つの国があっただけではなく、その他にも小国もありました。

周(東西に分裂)宋、中山、魯、衛などの国です。

そのうち中山、宋などは一時期王を名乗りましたが、斉や趙に滅ぼされています。

今回は戦国七雄の国々を簡単に解説します。

 

 

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秦は最も西方に位置する国で歴史も古い国です。

キングダムの主人公である信(李信)や政(後の始皇帝)がいた国です。

周が鎬京を捨てて洛陽に移った時の活躍が認められて諸侯になっています。

戦国時代の初めの頃は魏に西河を奪われるなど圧迫されていました。

孝公の時代に商鞅が登場し秦を法治国家に変えます。

これにより、秦は国力を増して他国を圧倒しだします。

商鞅は信任してくれていた秦の孝公が亡くなると秦の恵文王に殺されますが、法律は変えませんでした。

昭王の時代になると、魏冄(ぎぜん)が白起を採用して他国の領土を次々に奪っています。

その後、呂不韋が政権を握ったりしますが、他国の領土侵攻はやめずに秦王政(始皇帝)の代でついに天下統一しました。

ただし、始皇帝死後に4年で秦は項羽により滅ぼされています。

秦の中国統一期間はわずか15年しかありません。

キングダムで信や政が頑張って国作りをしていますが、政が死ぬと呆気なく滅びるという事です。

 

楚は南方の大国です。

春秋戦国時代より以前の、周の時代から王を名乗っていた事が分かっています。

尚、西周王朝の時代に昭王が南方を征伐した事になっていますが、楚を征伐したのではないか?とも考えられています。

長江流域の国でもあり周王朝とは違った流れを汲んでいるとも伝わっています。

春秋時代では、成王の時代に晋の重耳(晋・文公)が亡命してきています。

楚の荘王の代には、邲の戦いで晋を破り覇者となりました。

荘王は春秋五覇の一人にも数えられる事があります。

戦国時代になると、伍子胥が呉に亡命したりして、一時は呉に楚の都を落とされてしまいます。

しかし、その後は復興して呉起が楚の宰相になるなど国力を回復させた時代もありました。

楚の懐王の時代に張儀に騙されたり、頃襄王の時代には首都である郢を秦に落とされています。

その後は、春申君が楚・趙・韓・魏・燕の合従軍で秦を攻めましたが、函谷関を抜けずに撤退しています。

楚将項燕が李信・蒙恬を破るなどの活躍もありましたが、王翦に敗れ楚王が捕虜となり滅亡しました。

尚、項燕は昌平君を王に立てて楚を復興しますが、王翦・蒙武に敗れ結局は滅びました。

始皇帝が崩御すると、各地で反乱がおき秦は項羽が滅ぼします。項羽は項燕の孫です。

 

 

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斉は春秋戦国時代を通してあった国です。

春秋時代は姜性の王様でしたが、戦国時代は田性の王様です。

家臣に国を乗っ取られる形で、主君が入れ替わりました。

一時は宋を滅ぼすなど中華でも秦・斉の2強時代になっています。

この時は孟嘗君が斉の宰相となっています。

しかし、燕昭王の恨みを買い燕将楽毅率いる五カ国連合軍に大敗しました。

許と即墨の2城を残し楽毅に占領されてしまうという歴史的大敗を喫しています。

楽毅が趙に亡命すると斉将田単が旧領土を取り戻しますが、国力は大幅に落ち昔の勢いはありませんでした。

斉王建の時代には、秦の他国への侵攻を傍観して手出しをしていません。秦と斉が同盟関係にあったからです。

その結果、韓・趙・魏・燕・楚は滅び、最後に残った斉も征服して秦は統一しました。

始皇帝が崩御すると子孫である田儋、田市、田栄、田横などが斉で秦に対して反旗を翻しています。

 

燕は中原の地域から遠く歴史の分かりにくい国でもあります。

しかし、伝説によれば燕の始祖は周王朝の功臣である召公奭(しょうこうせき)です。

春秋時代に山戎に攻め込まれて斉の桓公に援軍を求めて山戎を撃退した記録があります。

戦国時代になると、朝鮮半島の方に勢力を伸ばしていたようです。

戦国時代に斉に壊滅的な打撃を食らいますが、名君である燕昭王が現れて楽毅を将軍にして合従軍を率いて斉を壊滅的な状態にしました。

しかし、燕の昭王が亡くなると斉に領土を取り返されてしまい大幅に国力を落としています。

その後は、60万の軍勢で趙を攻めるなどもしましたが、廉頗に撃退されています。

秦王政に恨みを抱いた燕太子丹が荊軻を刺客に送り込みますが失敗に終わりました。

秦王政は激怒して李信や王翦に燕を攻めさせ滅亡しました。

 

魏は晋文公の亡命生活を共にした魏武子の子孫が晋を分割して作った国です。

魏は戦国時代初期は李克・呉起・楽羊・西門豹などの賢臣がいて強国でした。

武侯の代も領土を拡大したり中華で最も権勢を誇った国です。

しかし、恵王の時代に馬陵の戦いで斉に負け、さらに商鞅率いる秦にも敗北して国力を落としました。

魏が国力を落とした事で、秦と斉の2強時代が到来しました。

白起が活躍していた頃には国土を多く失っています。

その後、信陵君が秦を二度に渡って破るなど活躍しました。

しかし、信陵君が失脚してアル中で亡くなると秦は再び魏に侵攻を始めます。

魏の蒙驁に攻められて魏の東部を奪われると秦に対する抵抗する力を完全に失いました。

最後は王賁に攻められて大梁を落とされて滅亡しています。

始皇帝が死ぬと魏の子孫である魏咎、魏豹らが秦に対して反旗を翻しています。

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尚、魏はと呼ばれる事も多いです。

史記の中でも魏といったりと言ったり書いてある場所により呼び方が違っています。

 

韓は趙・魏と共に晋から独立した国です。

韓は戦国七雄の中でも最も弱小だと言われています。

実際に、戦国七雄の中では最も早く滅びていますし、西方に秦がいる事で侵攻に悩まされていました。

国土としては中原のど真ん中に位置していますし、首都である新鄭は交通の要所として栄えています。

新鄭は春秋時代は鄭の首都であり、大国楚や晋の侵攻を幾度も防いでいる難攻不落の城です。

晋が分裂する時に、趙・魏とどこを領地とするか決めますが、その時に韓は段規の進言で成皋を取っています。

成皋は石ころだらけの土地ですが、ここを拠点にして鄭を滅ぼし首都を移しました。

さらに、韓の昭公の時代には申不害を宰相にして国力を高めました。申不害が宰相の間は他国は韓に手出しが出来なかった記録があります。

しかし、その後の韓は王を名乗ったりしますが、史記などを見る限りでは連戦連敗で戦いに滅法弱いです。

ただし、魏が韓に奪われた土地を奪還する事を目指したような記述もあるので、記録に残っていない勝利もあるのでしょう。

もしくは外交の機転により割譲してもらった可能性もあります。

戦国時代末期の秦が次々に領土拡大していく中で、韓は次々に領土を奪われてしまいます。

鄭国を秦に向かわせて土木工事を行い秦の財政を悪化させるなどの策を弄したりもしましたが、結局、灌漑工事は大成功し秦はさらに強大になりました。

秦には荀子の元で学んだ韓非子という公子がいて韓王に富国強兵の道を進言しますが用いられる事はありませんでした。

韓非子は吃音が酷くて相手にされなかった話も伝わっています。しかし、韓非子の書いた書物が秦に伝わりました。

すると秦王政はいたく気に入り「この者と会って語ることが出来るなら死んでも悔いはない」と興奮して話したとされています。

秦王政は韓非子に会うために韓を攻め立てました。講和の使者に韓非子が来たのですが、秦王政との会談は筆談だったのかも知れません。

韓非子は吃音が酷くて話すのが苦手だったからです。逆を言えば吃音が酷く喋るのが苦手な韓非子をよく使者に選んだと思いました。

しかし、結局、韓非子は讒言にあったりして秦で亡くなっています。

韓非子が死に秦は韓を攻めて戦国七雄の中では最初に韓が滅びました。秦末期や楚漢戦争で活躍した劉邦の軍師である張良は韓の宰相の家柄だと記録に残っています。

秦末期に一時期復興していますが、韓王成は項羽に斬られました。一族の韓王信は劉邦に韓王に任じられますが、冒頓単于が率いる匈奴に投降しています。

 

趙はキングダム読者であれば知っている人も多い事でしょう。

李牧がいる趙です。

趙は晋を韓・魏・趙と分割して国となりました。

しかし、当時、韓・魏・趙よりも強大な勢力が晋にはいたわけです。

それが智伯です。智伯は韓と魏を誘って趙を攻め陥落寸前まで追い詰めます。

しかし、趙の当主である趙襄子は韓・魏を誘い智伯を裏切らせる事に成功します。

その結果、趙・魏・韓に攻められた智伯は死に滅びました。

智伯の死後に智伯の可愛がっていた予譲が刺客となり襲われる事件も起きています。

この話は史記の刺客列伝に詳しいです。

智伯を破り趙は韓・魏と共に晋を三分割しました。

この頃の韓・魏・趙は立場上は晋の家臣ですが、領地は主君である晋公よりも広大な領地を有していました。

晋の主君の領地は曲沃と絳しかありません。韓・魏・趙の当主の方が10倍以上も広い領地を持っていた事になります。

家来と主君が完全に逆転した状態です。尚、春秋時代と戦国時代の分かれ目は様々な説がありますが、智伯が死に晋を三分割した時を戦国時代の始まりと考える人が多いです。

戦国時代に入ると初期の頃は地味な存在でした。しかし、武霊王の代になると胡服騎射などを採用する事で大幅に領地を広げています。

中山を攻め滅ぼしたのも武霊王です。しかし、後継者問題で失敗し武霊王が亡くなると秦に攻勢を許す様になります。

しかし、趙の恵文王の時代には、廉頗、藺相如趙奢などが活躍し、さらに他国からは楽毅、田単がやってくるなど人材の宝庫でした。

趙の恵文王が内政を重視して戦争を好みませんでした。趙の孝成王の代になると長平の戦いで白起に敗れ大敗しています。

結果、40万人の兵士が生き埋めにされてしまいました。その後、首都邯鄲も秦に包囲されるわけですが、平原君が楚に援軍を取り付け、魏の信陵君が国の指揮権を奪い趙を助けています。

その結果、邯鄲で秦は破れました。しかし、その後は再び秦に領土を削り取られていきますが、李牧の活躍で秦を何度か撃退しました。

しかし、趙の幽穆王が郭開の言葉を信じ李牧を殺した事で邯鄲が陥落して趙は滅亡しました。公子が代(地名)に逃げて代王となりますが、結局は秦王政に滅ぼされています。

 

戦国七雄を紹介してみて思った事

戦国七雄はもう少し短い記事になる予定でした。

国によっては、書く事が次々に頭に浮かんでしまいやけに長くなってしまいました。

国ごとで歴史を詳しく書きたいとも思いました。

近いうちに、詳しい記事を書いてみたいと思います。

この当時は極端な人が多いですし、話題には本当に困りません。

尚、キングダムの時代は信たちが強大な国々に挑んでいるように思うかも知れませんが、実際には秦の力が他国を圧倒していて歴史書などを見ると悲哀に満ち溢れています。

他国が次々に秦に領土を奪われていく悲しさがにじみ出ているのが、戦国時代の末期です。

戦国七雄の覚え方ですが、個人的には秦、楚、斉、燕、趙、魏、韓という覚え方が語呂もよく覚えやすいです。

私もキングダムは毎週必ず読んでいますが、作者のこの時代の洞察力に感服してしまいます。

戦国策などでも書いていないような事を想像を広げて書いているからです。

史実だと斉王建が秦に来た。しか書かれていなかったりしていますが、キングダムだとちゃんと用件まで解説しているわけです。

この想像力が凄まじいと感じています。

話はそれましたが、戦国七雄の概要が掴めればいいかなと思って記事にしました。

 

 

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